シッダルタも前生もけっして過去ではなかった、また死と梵(ブラフマン)への復帰もけっして未来ではない。 何ものも過去に在ったのではなく、何ものも未来にあるのではない。いっさいは現在に在るのだ、現存しているのだ。
そうしてさっきから自分の裡に湧き立っている制作慾にそれからそれへと促されながら、私はそんな私たちの奇妙な日ごと日ごとを一つの異常にパセティックな、しかも物静かな物語に置き換えだした。
事実はきわめて単純である。 すべての秘密はただ二語にしてつくされる、 曰く持久、曰く不撓。
芥川さんのように死にたい、いつもそう思っていた そして今、生きて氏の作品読んだことに感慨深いものがある
なるほどさっぱりわからん
しかしアナキストの世界となっても、畢竟我々人間は我々人間であることにより、到底幸福に終始することは出来ない。
クロフトさん達は、ゲイ通りに宿をとっていた。ウォールター卿は、勿論至極満足だった。
しかしかく考えれば善は一種の快楽または満足を与うるが故に善であるので、即ち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移ってくる。
「汝に誉あれ!」と天使は彼女に言った、これこそ第二のイーヴたる聖母マリアに、遥か後になって献げられる、聖なる祝福の言葉の最初のものであった。
生まれた者には死がある。 生まれたならば、苦しみを見る。捕縛、殺害、責苦がある。それ故に生を喜ぶな。ブッダは真理を説かれました。一切の苦しみを除くために、生を超越することを。
これは希望と戦争との競争である。 死と死との競争である。ファシズムの死と私の死と、どちらが先にくるか、これは私だけの問題だろうか。 いや、そうではない。何万という囚人たちがこういう問いを発しているのである。
英雄主義と強大なニヒリズムは、 鍛えられた筋肉と関係があるのだ。 なぜなら英雄主義とは畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊とのコントラストに帰するからであった。
この窮迫と孤独のなかで、もうひとつ別の幽霊が、にせのなぐさめ手として、病少年に近づいてきて、しだいしだいに、かれにとって親しい、不可欠なものとなって行った。 それは死の想念であった。
ごらんなさい、あのペストの天使を。 ルシフェルのように堂々として、悪そのもののように輝き、あなたがたの家の屋根の上に立ち、右手にもった赤い槍を頭の高さに掲げ、左手でひとつの家を指し示しているのです。
ドストエフスキーの死人の家な、ここから見ればあれだって大したことでないって気がする。
生きるか、死ぬか、それが問題だ。
コペル君、いいか、それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。 肝心なことは、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。 それが人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。
挙止沈着 精神平静であれば いかなる種類の激情にも擾されない
戦争目前の世界で突如流行り始めた未知の疫病。そこへ特効薬を発見したという貧しい町医者が現れるが、施療に際し、彼は一つだけ条件を提示した。 死に至る病を前に、人々は何を選ぶのか。1937年刊行の名作SF戯曲が鋭く問いかける。
とりわけ、彼は近代的人間や、個人を基礎とする資本主義的生活様式や、無趣味な思考様式や、功利主義哲学の先駆者でもあり、実にビフテキと理想とを始めて共通分母の上に並べる力と機縁とをもった頭脳の持ち主である。
シュレーディンガーは「電子は波動である」という主張に立って一つの閉じた理論を作り上げようと試みた。即ち物質波は、光の波と同様に、あくまで物理的な、我々がその中に居るところの三次元の空間内に存在する物質的実体であるという考えである。
なんとなれば、人間がエデンの園におかれたのは、ウト・オペラトゥル・エウム、すなわち働くためであったのだからな。
さすが岩波文庫! 表紙でネタバレを平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!
しかし自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処世訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。
そうなんだよ!知恵や、論理なんて関係ないんだ。はらわたと魂で愛するんだ、この生まれる力、この若い力を愛するんだよ…
この付近の谷々に住む迷信深い人たちは、マッターホルンの頂上には廃墟になった町があり、そこに魔ものや亡霊たちが住んでいるのだと語り合っていた。
誰かのことを考えて電車を乗り過ごしてしまうほど、それほど恋しい気持ちを抱いている人がいるなら、その人は幸せだと思う。
デミアンが神とあくまについて、神聖な公認の世界と、黙殺されたあくまてきな世界について、言ったこと、それはまさしくそのままぼく自身の考え、ぼく自身の神話なのだ。
狂人ヒースクリフとそれを取り巻く愛憎劇 「だってあいつは、半分しか人間じゃないんですもの。いえ、半分以下ね。」
しかし今日「死の時代」ともいうべき歴史の危機に臨んで、生の存在学が二律背反の行詰まりに陥ること避けがたき際、もし我々を救う哲学があるとするならば、それは死の弁証法でなければならぬこと否定できまい。